午前中は通院、午後は諸用ありだが時間が空いたので久しぶりに鹿島神宮へと足を運んだ。
ここに来るのはかなり久しぶりだ。
東日本大震災のときに崩落した大鳥居が修復されていた。
もう随分と前のことらしい。
前は石の鳥居だったが、新しいものは金属製(?)のような趣だった。
週末ということもあり、他県ナンバーなど多くの参拝者が見受けられた今日。
ここはいつ来ても清々しい。
早朝などであれば尚の事だろう。
見上げる空の青と、色づいた森の色が織りなすコントラストは相変わらず素晴らしい。
地元ということで意外にも足を運ぶことが少ない。
今日はたまたま天気も良く、ウォーキングにも良いのではないかと思って来てみた。
昔、自分が若かりし頃は、この坂道は舗装などされておらず、木の根が所々むき出しになっている荒れた土道であった。雨が降るたびにぬかるみになり、歩きにくさこの上ない道だったのだが、今はこのようにスッキリとした歩きやすい道になっている。
勾配のある坂道という部分はまた別の話になるが。
坂道を一歩ずつ、確実に登っていく。
どこかで登山家の人が話していたのをラジオで聴いたことがあるが、人にとって坂道は登りのほうが楽なのだそうだ。確かに一歩ずつ体重を持ち上げながら歩くのと、重力に逆らい下るのとでは、下りのほうが負担が大きくなるのは必須だろう。
坂道を登りながら久しぶりに来たこの場所をしみじみと見渡してみた。
木々に覆われた山肌に暖かく降り注ぐ陽の光。
木漏れ日に眩しさを覚えつつ、ふと見上げたところにある空への空間。
そこから見える青空の素晴らしさ。
病気になったからこそ分かる「なにか」が確かにあると思えた。
同じ構図なのだが、微妙にそれぞれが違う。
同じに見えるかもしれないが、確かに今という時間経過は存在していて、ものの見え方も人それぞれ。自分の中でもそれぞれ違う見え方、捉え方、考え方があるのだ。
そんな森羅万象「いろいろ」なことを、この場所は自分の人生時間など一瞬でしかない。
時代の遷移すら一瞬かもしれない。
それくらい長い年月を、多くの人と共にこの森は過ごしてきたわけである。
本殿で参拝。
いつかの正月に参拝したのが最後になっている気がする。
もしかしたら今年の正月か、去年の正月か。
記憶が混乱していて定かではない。
地元民ならではの「いつでも来れる」という気持ちが、そういう記憶喪失に陥れているのかもしれない。
手持ちの適当な小銭と共に、ゆっくりと気持ちを込めて「二礼二拍手一礼」。
これは神道である我が家の常識なのだが、そうでない方たちには少しわかりにくい作法かもしれないと思うときがある。
個人的には他の宗教でもそうだと思うが多少作法がを間違えた程度で怒る神様も仏様もいないと思っている。そんな器が小さい存在ではないはずなのだ。
しっかり気持ちがこもってさえいれば問題はないのではないかと思う。
誰も利用している人を見かけなかったが、参道の横にある腰掛けで少し休憩をした。
最近ウォーキングのときは、このノルディックポールを愛用している。
椎間板ヘルニアという持病もそうなのだが、最近は膝下の感覚神経がやられてしまっており、以前のようなしっかりとした接地感が危ういのである。
その分、一歩ずつ確認しながら歩く癖が必然ついてしまった。
ポールを使ってあるく利点として「転倒防止」や「猫背防止」、「全身運動」の促進などがありいいことだらけだ。
ウォーキングという「ただ歩いているだけでしょ?」的なところから、一種の「スポーツ」にまで歩いていることを昇華させてくれる気がする。
ただの自己満足かもしれないが、「百聞は一見に如かず」である。
気になる方は是非試してもらいたい。
日差しの向きが代わり、帰り道の参道である。
現在「奥の院」で工事が行われているようだった。
外装は覆われているものの、しっかり参拝はできるようだった。
写真には収めていないが。
小さい頃から慣れ親しんできた場所だが、来るたびにいろいろな事柄を思い、考えさせてくれる場所である。
「この杉の木は昔からこんなに大きかったのか」
あらためて、巨木が力強く張り巡らす根を見て思ったり、考えたり。
日々思い続ける「絶望感」と「無力感」が、一瞬薄らいだ気持ちになったのは確かだ。
だから明日からどうにかなるとか、未来が明るくなったとか、そういう話でもないのだが、人にとってこの「一瞬」というのが実はものすごく大切ではないかと思う。
その一瞬がなければ、抱えている苦しみは常に継続することとなる。
一息、ふた息程度でも、腰を下ろして自分の足元を見つめる時間があってもいいのだ。
その足元に広がる地面は、きっと過去に数え切れないほど多くの人を支え続けてきた地面まのだ。そんな地面に、その一瞬でも支え歩かせてもらえているありがたさ。
自分のこれまでの生き方も、これからの生き方も。
わずかでも良い、違う角度から見ることが一瞬でも出来れば、そのときはしあわせである。
これから、まだまだ続くであろう「最悪」の時間から、ほんの少しでも引き離してくれる貴重な時間である。