誰にでも居場所があると思っていたら大間違い。
実際にそうそう居場所がある人ばかりではないのが現実だ。
前回の「思い出がつらいとき」同様に、思い出が詰まっている場所を、今は少しずつ訪れてみては心の鍛錬を繰り返しているのが現状。
好きだった人とよく訪れていた海辺の風景も、離れ離れとなってしまった今となっては、ただただ思い出がつらい場所にしかならない。
だから、あえて来てみた。
心の耐性をつけておかないと、どこにも出歩けない状況に陥るかもしれないと思ったからだ。
春・夏・秋・冬と、それぞれの季節に訪れていたこの海辺に、今はたったひとり孤独だ。
当時は当たり前と思っていたしあわせが、今は苦痛としか受け止められない。
大抵の場合、思い出の場所なんてそれくらいの価値しかないのかもしれない。
歩いた波打ち際も、冬空の下ではより一層寒さがしみてくる。
当時は、もっとなにか楽しい思いを胸に、寒ささえ楽しんで歩いていたと記憶している。
寒さと一緒に暖かさすら共有できていた、懐かしい時間を過ごせていたのかもしれない。
なにも考えず、ひたすら歩いてみる。
考えてしまうと歩みが止まるからだ。
ただ物理的に移動をしては、また戻ってみるを繰り返す。
考え、思い出したら、その時点で寂しさに押しつぶされる。
離れてしまった悲しさではなく、ひとりでいるという寂しさのほうが大きく感じる。
西に傾く太陽を眺めつつ、ここに自分の居場所があるのかどうかを考えてみる。
自分はここに来て、なにかを得ることができるだろうか。
寂しさやつらさではなく、楽しさや喜びをもう一度手にすることはできるのだろうかと。
どこに行くにつけ、しばらくはそんな自問自答を迫られる毎日を送るしかなさそうだ。
やり残していることが、まだなにかありそうだ。
それがなくなったときは、きっと幕引きで十分なのだろうと思いつつ。