2022年02月24日、木曜日。
天気は晴れ。
昨日でやっとコロナの隔離解除となり、本日久しぶりに職場復帰したが、相変わらずの体調不調にて早々にも早退をしでかした。今月も残り一週間を切っているのになにをしているのか。
後遺症ではないと思いたいが、相変わらず喉の痛みと咳、軽い頭痛がある。
息苦しさなどは特にない。
自分がコロナになってから具合が悪くなっていた飼い犬も、今は投薬の効果もあり元気を取り戻しつつある。がんの疑いがあるにしろ、日々少しずつでも元気になってくれると嬉しいものだ。あっという間に過ごした12年間を無駄にしたくはないものだ。
最近、というか今年になってずっと「思い出」がつらいときがある。
楽しいときの思い出やつらいときの思い出、人によっていろいろあるだろうが、好きな人と一緒にいたときの思い出は尚更である。
物や場所、日付や時間など、いろいろなものに紐付けされて、いろいろな思い出が存在する。
どんな些細なものにでも、すべて嬉しさや楽しさ、愛しさなどが紐付けられているから困ったものだ。
誕生日だった昨日、当然隔離中のため外には出ることはできないが、ひとりクルマを運転して海に行ってみた。その昔よく好きだった人と一緒に眺めた海辺だ。
病気もそうだが、「いざ」そのときになってみないと物事の有り難さや尊さはわからないものだ。ひとりで眺める海辺の寂しさや寒さ、散歩をする家族連れやカップルなどを人間観察しつつ考え、そして感じた。
思い出が染み込むには場所などに限らず、そのとき一緒に過ごした人たちや歌など、すべての事柄に思い出は染み込む。
楽しければ楽しかっただけ、嬉しかったら嬉しかっただけ、それぞれに思い出に染み込む。
楽しいうちは良いが、つらくなってしまうと厄介だなと、今年になってから常に感じるようになっている。
つらいと思う元となる思い出を断ち切れれば良いが、人は思い出で生きている部分も大きいのではないかと思ったりもする。
若いとき、歳をとったとき、そしてこの世から去るとき、きっといろいろな思い出に支えられてその時を過ごすのだろうと思う。
今、このとき、もしつらいと思える思い出でも、いざこの世から去るときには、きっと良い思い出となって最期に思い出されるのだろうから、そう簡単に思い出を断ち切ることもないだろう、と思うようになってきた。
今、欲しいのは、ただ「支え」。
病気に次ぐ病気、そして愛しい人との別れ。
自分が欲しいものは一体なんだろうと考える。
今、圧倒的に感じている孤独感と不安。
そんな中で、どんなときでも、自分の味方になってくれる存在。
そういう存在で居てくれる絶対的な安心感がほしい。
よく「空気のような存在」という言葉を聞くが、それよりもっと濃い存在で居てほしい。
ご都合主義で申し訳なく、勝手な言い分かもしれないが、今自分がいちばん欲しいのは心の支えなのだろう。
なかなか、そんな存在に出会えるはずもなく、しばらくは日々をぎりぎりで乗り越えていくのだろうと思う。
誕生日から1日過ぎて、特別なにも変化もなく世界は動いている。
自分ひとりくらいの存在は、なんら世界に影響を与えないが、きっと誰かに影響を与える人がひとりくらい居てくれたら嬉しい。